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2024.04.01

南会津在住トラックメイカーnovsemilongが語る 音楽と現代アートの魅力

地方で輝くモノ・ヒト・コトにスポットを当てた連載企画『地域創生ローカルヒーローズ』。今回取材したのは、アートが息づく南会津の旅館『紫泉』の宿主でありながら、DJ/トラックメイカー“novsemilong(ノブセミロング)”としての顔を持つ鹿目信和さん。会津出身のペイントアーティストMHAKさんとも親交が深く、アーティスト集団『81 BASTARDS』の一員として、音楽でそのアートフォームを支える才人です。そんなnovsemilongさんのプライベートスタジオに、MHAKさんの仲間のよしみで潜入! 音楽活動を始めたきっかけや、会津から音楽を発信する理由、音楽と現代アートの魅力など、根掘り葉掘り聞いてきました。

トラックメイカー/novsemilongさん

福島県南会津生まれ。ベーシストとしてキャリアを開始した後、2003年よりソロ名義“novsemilong” での活動をスタート。有機物・無機物を問わず、対象物と向き合いながら音を採集し、その音を自然に還元する“animism+music=animisic(アニミジック)”という独自のテーマで音楽活動を展開。自身の楽曲制作のほか、アーティストや企業への楽曲提供、CM・ドキュメンタリームービー等の音楽制作など、活動は多岐に渡る。アーティスト集団『81 BASTARDS』所属。
URL:https://www.novsemilong.com/


トラックメーカーnovsemilongとしてのこれまでの歩み

主に映像音楽を手がけるトラックメイカーとして活躍するnovsemilongさん。数々の企業CMや映画の音楽を担当しつつ、楽曲を提供しているブランドやアーティストからの信頼もすこぶる厚い。そんなnovsemilongさんが音楽活動を始めたきっかけは?

「もともと4歳からピアノをやっていて、中学でバンドを始めました。そこからベーシストとして活動して、20歳の時にnovsemilongという名義でDJをスタートしたんです。当時はバンドカルチャーとDJカルチャーがどちらも盛り上がっていて、特にクラブ人気が高まっていた頃。若かったのでモテたい気持ちもあってDJを始め、そのうちエレクトロニカや4つ打ち、ヒップホップにも触れるようになって、自分でもトラックを書きたいと思うようになりました」。

その後、様々な場所で多くのライブを行っては、自身が制作したトラックを流していたそう。そのうちその活動が映像作家やCMディレクターの目にとまり、現在の仕事に繋がっていったと言います。

「最初は僕のCDにある曲を使わせてほしいというお話をいただいていましたが、クラブミュージックのトラックは1曲が長いので、CMに使う場合はどうしても編集作業が必要なんです。どうせ編集する手間がかかるのであれば、作業的には新しく曲を書くのと正直あまり変わらないので、依頼された案件にあわせてトラックを書くようになりました」。

そこからトラックメイカーとしてのキャリアがスタートし、テレビCMやイベントのBGMをメインに制作。とはいえ当初は、「年に4〜5件くらい仕事があったらいいかな」という程度だったそうです。そして転機となったのは、MHAKさんとの出会い。そこから依頼が増え、仕事の幅も広がったとnovsemilongさんは話します。

「MHAKさんに出会ってから、初めてファッションやアート関連の仕事をやらせてもらいました。MHAKさんが道を作ってくださったおかげで、ストリートブランドやスポーツブランド、車などの案件が増えたんです。当時はYouTubeやウェブCMが注目されるようになった頃で、広告音楽の需要も増えていた時に、僕のキャリア的にもちょうど合致したという感じで好転していきました。本当に良い方々に巡り会わせていただき、自分の実力以上のステージに引き上げてもらい、とても感謝しています」。

実は音楽はそんなに好きじゃない!? それでも続ける理由

今では数多くの音楽制作を手がけるまでになったnovsemilongさんですが、「実は僕、そこまで音楽好きじゃないんです」とカミングアウト。音楽が好きでトラックメイカーをしているというよりは、「できるからやっている、というほうが正しいかもしれない」と言います。そこには音楽制作の道に進む後押しとなったエピソードが。

「うちの父は書道家で、美大も出ているのですが、書と絵、その2つの才能が僕には全くなくて。逆に姉はどちらも才能があって、書でも絵でも、小さい頃からバンバン賞をとるんです。だけど自分には本当にセンスがなくて、父からもまわりからも、色々言われてきました。でも、なぜか音楽だけは人に認められていたんです。

すごく恥ずかしいんですけど、初めて褒められたのは高校1年の時。めちゃめちゃギターが上手い同級生に、ベースのセンスがめっちゃあると言われたんです。格好良くて頭も良くて、クラスで一番イケてるやつに自分のベースを認められたことで、本当に楽しい高校3年間が送れました。作った曲を先輩たちに褒めてもらったり、楽曲制作の依頼もされたりして、これを捨ててしまったら僕には何も残らないぞ、と。そこで初めて、自分の軸を人に認めてもらったような気がしたんですよね」。

また、作曲の才能に関しては、父親に認められたことも大きかったそう。

「父とはあまり仲良くなかったんですけど、20歳の頃、僕が曲を書いている時に父が急に部屋に入ってきたんです。アンプで鳴らしていたので音が漏れていたんだと思いますが、“お前の曲、めちゃくちゃ良いな”って。それからですね、徐々に関係値が変わってきて、父の書道家としての悩みを知ったり、親子ではなくクリエイター同士の話ができるようになって、本当の信頼関係が生まれました。
そうすると、“あの時きっと、こういうふうに考えて俺に文句を言ってたんだな”、とかもわかるようになってきて、父親としても好きになったり。反対に、父も僕の音楽というものを通して、初めて僕のことを男としても経営者としても認めてくれた部分があったように感じます。なので僕自身は、音楽にしがみついてなかったら、本当に生きていけなかったかも、なんて思ったりしますね。アイデンティティの部分で、僕の場合は音楽しか選択肢がなかったんだろうな、と。ただ今は、純粋に音楽のことが好きになってきているというか、何かすごい恥ずかしいんですけど」。

会津から音楽を発信するnovsemilongさん。家業である旅館『紫泉』を受け継いだという事情があるにせよ、トラックメイカーとしては都市部のほうが活動しやすいのではないでしょうか。会津という土地の魅力、その想いを聞きました。

「バンド時代は事務所が新宿にありましたし、いまだに東京に行く機会も多いです。僕は震災の約2年前に会津に帰ってきたのですが、その時も宿ではない仕事をしていました。音楽1本で本当にメシが食えるのか?という問いがずっとあって、いまだに自問自答しています。
ただ、ずっとしがみついてきた僕の音楽制作の中で、何が1番大切なのかを考えた時に、それが会津でした。しっかりと音が出せて、周囲に自然の音が溢れているこの環境こそが、僕の音楽には1番大事だと気付いたんです。僕は自然の音から刺激を受けることが圧倒的に多くて、その刺激を受ける素材を探しやすいのが大きいですね」。

「会津にいる理由はもうひとつあります。会津は現在17市町村あるのですが、それぞれの特徴的な音を録って、サンプリングして楽曲を書くというお仕事を、2年前にさせていただきました。その際、木地師と呼ばれる会津漆器の職人の方が、100年寝かせた木を目の前で削ってくれたんです。同じ会津人だから、とっておきのアンティークを削ってやるよって。会津生まれで会津に住んでいるからこその信頼関係ですよね。
ほかにも、奥会津のおじいちゃんやおばあちゃんの、手作業の音とか言葉とか、会津じゃなければ録れない音がたくさんあります。田舎とはいえ、僕らの年代ぐらいになると言葉も平均化して、あまり地域ならではの音が残っていません。それらの音に改めて触れた時に、やっぱり僕は会津という場所が、本当に自分の性に合っていることを実感しました。
17市町村の音を録らせていただいて、こういう音を発する人がたくさん残っている地域で音楽を作ることが、僕には大切だと気付かされました」。

MHAKさんとの出会いと『81 BASTARDS』への想い

トラックメイカーとしての歩みの中で、MHAKさんとの出会いをきっかけに仕事の幅が広がったと話してくれたnovsemilongさん。改めてMHAKさんとの出会い、2人の関係性について聞きました。
「大学時代に福島市でバーテンのバイトをしていたんですけど、そこのオーナーさんがアートに詳しくて、僕と同じくらいの年代で面白いことをやっている人がいるよ、と教えてくれたのが、MHAKさんや純さん(JUN INOUE)でした。それがめちゃくちゃ刺さって、そこからMHAKさんのアートの世界に触れて、個展や壁画を見に行きました。その時はまだMHAKさんにはお会いしていないのですが、いちファンとして一方的に追っていましたね。まぁそれは今もあまり変わっていないですけど(笑)」。

MHAKさんの作品を好きになり、調べていくうちに会津出身と知ったそう。年齢もひとつ違いで、作品以上にシンパシーを感じていたと言います。そして、直接会う機会がないまま3〜4年が経ったある日、2人は東京で出会います。
「MHAKさんに初めてお会いしたのは10年くらい前ですね。たまたま東京に遊びに行っている時に、知り合いのアーティストさんとクラブに出かけたら、偶然MHAKさんも来ていて紹介していただきました」。

そんな偶然の出会いをきっかけに親睦を深め、2009年には、MHAKさん所属のアーティスト集団『81 BASTARDS』にも参加。トラックメイカーとして、そのアートフォームを音楽面で支えています。

「純粋に音を求めていける人が、ミュージシャンでありアーティスト。でも僕がやりたいことは音楽だけでは完結しないので、そういう意味では、僕はミュージシャンでもアーティストでもないのかもしれません。だけど変な話ですが、そこに僕はすごく誇りを持っているんです。ほかの方と組んでその世界観を作れるなら、僕はそっちをやりたいし、音よりも映像のほうが表現できるなら、自分で映像も撮ります。
もともとMHAKさんや純さんのファンだったので、『81 BASTARDS』のメンバーとしてカウントしていただいていますが、一生リスペクトは消えないし、『81 BASTARDS』の方々が売れようが売れまいが、僕が好きな絵を描き続けてくれる限り、僕はずっとファンなんです」。

実際に生でアートを見てもらうための音づくり

このように、『81 BASTARDS』のファンであるとはばからないnovsemilongさん。メンバーとして、どうすればこの想いを多くの人々に伝えられるか、アートに触れる感動を知ってもらえるかを、常に考えて音作りをしているそう。

「絵に関して言うと、現場に行って生で見てもらうことが1番だと思っています。絶対に生で見なきゃダメですね。でも僕は田舎者なので本当にわかるんですけど、見たいと思っても見れない人は、いっぱいいるんです。そんな人たちが無理をしてでも行きたいと思えるような素材を作るのが僕の仕事だと思っているので、僕が実際に感動を覚えた道筋を映像や音楽を通して追体験してもらって、生の絵を見てもらうところに行き着いてほしい。特に『81 BASTARDS』に関しては、こういう音を入れたほうが、今回の絵や表現したいことが伝わるかもしれない、という視点でトラックを書いています」。

「ただ、僕が普段書いている音から1番遠いのも、実は『81 BASTARDS』。でも無理しているわけではないし、いろんな楽曲が書けることが僕の強みで、今はとにかく本当に楽しくて。もし足を引っ張っていない程度に方向性と合致しているなら、これ以上に嬉しいことはないですね。
僕の世界を開いてくれたのは、やっぱりMHAKさん。彼がいなかったら、これまでの様々な扉は僕の力では開けられなかったと思います。『81 BASTARDS』に入れていただいたのも、MHAKさんの独断なんですよ。そうじゃなきゃ、正直僕が入れるようなところではないし、誘ってくれたのがMHAKさんだったから入ったところもありますし。MHAKさんはアーティストとしてはもちろん、プロデューサーとしてもすごいんです。地域を見る目、会津に対する見方をいまだに勉強させてもらっていて、会津に住む人間として本当に感謝しかありません。そういう恩返しの意味でもトラックを書いているという感じです」。

インテリアに圧倒される! アートに囲まれた自宅もチラっと

アートに対して並々ならぬ想いを抱くnovsemilongさんですが、アートに興味を持つきっかけとなったのは、中学の時に読んでいたファッション誌やカルチャー誌。裏原ブームが全盛の頃、著名なアパレルデザイナーやファッショニスタたちがお気に入りのインテリアを紹介していたことに触発されたそう。当時は、おしゃれな人の愛用品=絶対的に格好良い、という時代です。
「その中でも特に『イームズ』に憧れていました。今でもやっぱり格好良いし好きですね。一番最初に買ったのは〈サイドシェルチェア〉。部屋に置いた瞬間に、自分の部屋じゃないみたいな感動がありました。実物を見たことがなかったので、初めてホンモノに触れたというか、今に繋がる刺激になりましたね」。

スタジオ、そして併設されるご自宅には、〈ストレージユニット〉や〈アームシェルチェア〉などの『イームズ』製品をはじめ、デザイナーズ家具がズラリ。MHAKさんやJUN INOUEさんのアート作品も壁一面に描かれています。
「うちにある1番の宝物は、MHAKさんがペイントした『イームズ』の〈レッグスプリント〉。『イームズ』が好きでMHAKさんが好きなので、僕の中の究極のダブルネームです。でもさすがにMHAKさんが描いてなかったら買ってなかったと思います(笑)」。

「実を言うと、会津人はもともと家具が好きなんですよ。職人さんも多いし、工芸品も身近にあるし。職人さんのところに行くと超アンティークな家具をいまだに大切に使っていたりして、これはもう土地柄ですね。僕も江戸時代の箪笥を亡くなった祖父からもらっていて、それを次にオープンする宿で使うつもりです。ここでずっと生きてきた人間じゃないとできないし、6代受け継いだ箪笥があること自体が単純にすごいし格好良い。粋だなぁと感じますね」

娘から教わった今後の音楽との向き合い方とは?

さて、最後に再び音楽の話に戻りまして、トラックメイカーとして今後どのような活動をしていくのか、目指している未来についてお伺いしました。

「すごく親バカな話になるのですが、うちの小学1年生の娘は、僕より絵心があるんです。それこそ学生の頃から今まで、いろいろ絵を買ったり画集を買ったりしていましたが、娘が生まれてからのほうが、買っていてよかったと思うんです。それと同じように、音楽も身近にあった影響なのか、めちゃくちゃ深いのを聴くんですよ。僕が聞いても“深いな〜”ってやつを、感覚的に捉えているというか。
今作っているアルバムは、僕の中で1番深いというか、ある意味開き直って作っていて、自分でもジャンルがわからないくらい。でもこのよくわからない感じが音楽的にすごく好きで、一般にリリースするかは別として作っているのですが、驚いたことに、娘だけはすごい食いついてくれて。それを見た時、変な話ですが、僕は間違ってなかったなと、本当に嬉しかったんです」。

「そこから楽になったんですよね。対外的に出すものと自分の中で大事な音楽は、完全に分けても良いのかもしれないと、娘に教えてもらったような気がします。自分の立ち位置が決まったというか。novsemilong名義で楽曲を出す時は、客観性はいったん無視しても良い、みたいな。逆に広告音楽とか仕事で受けているものに関しては、自分のエゴイスティックな部分を出すことなく、クライアントとの共同作業の中で面白いものを探っていけば良いんだ、と。

そんな風に、今は1番良いバランスで曲が作れていて、しかもそれがどっちも楽しいんです。広告音楽などのクライアントワークも昔と比べると上手に付き合ってるし、誇りも持てるようになってきているので、今後もバランス良く曲作りをしていきたいと思っています」。



Credit
Photo_Shuhei Nomachi
Text_Masahiro Tsuda
Edit_Satoshi Yamamoto


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