2026.02.17
魚の街・熱海で、夜になると静かに選ばれている牛タン専門店『牛タン いち江』。炭火焼きだけにとどまらず、しゃぶしゃぶや冷菜まで、同じ素材とは思えない表情を見せる牛タンは、鮮度と仕込みに向き合ってきた時間の積み重ねから生まれたもの。店主・水上さんの経験と、熱海の文脈が重なり、この街に“もうひとつの選択肢“が育っています。

水上 圭介さん/牛タン いち江 代表
建築デザインの仕事や居酒屋の開業を経て、2018年に同店『牛タン いち江』を開業。2024年には南熱海に姉妹店『2CHIE』をオープンさせ、さらなる牛タン料理を提供する。
目次
熱海駅から徒歩約20分。熱海銀座商店街を抜けて少し歩いたところにある牛タン専門店『牛タン いち江』。

「熱海って、やっぱり魚の街じゃないですか」。水上さんは、そう前置きして話します。
昼も夜も魚が美味しい。それはこの街の大きな魅力です。一方で、何食も続くと、自然と気持ちが切り替わる瞬間がくる。夜になって、少し違うものを欲する感覚。その感覚を否定せず、ちゃんと受け止めたいと思ったといいます。
「魚があるからこそ、肉の立ち位置がはっきりする。夜に選ばれる理由が、ちゃんと必要だと思ったんです」。牛タンという選択は、魚と張り合うためではありません。魚の街だからこそ生まれる、もうひとつの行き先。その余白に、牛タンが自然と収まったそう。
そんな牛タンは、熱海に来てから急に選んだ主役ではありません。東京・中目黒で居酒屋を営んでいた頃から、水上さんは牛タンを扱い続けてきました。
「焼いてもいいし、切り方を変えるだけでも印象が変わる。やればやるほど、まだできることがある素材だなと感じていました」。
手間がかかる分、反応が正直。火入れひとつで、硬さも香りも変わる。だからこそ、向き合う時間が長くなったそうです。
「専門にしたら、もっとちゃんと伝えられると思ったんです」。
焼きだけにとどまらず、しゃぶしゃぶや冷菜まで展開できるのも、これまで積み重ねてきた感覚があったから。牛タンは“選んだ素材”というより、気づけば、いちばん向き合っていた素材でした。


「牛タンは、何を仕入れるか、どう扱うかがいちばんの生命線」。
いち江で使う牛タンは、中目黒時代から付き合いのある仙台の卸から仕入れています。状態の良いものを見極めてもらい、処理後すぐに冷凍された牛タンを使用。そこから先は、店内で皮を剥き、一本ずつさばいていきます。
「自分たちで皮から剥くことで、余計な冷解凍を繰り返さずに済むんです」。
加工業者を挟まないことで、解凍と再冷凍を避け、できるだけ素材のいい状態を保ったまま仕込みへ。しゃぶしゃぶや冷菜まで展開できるのは、この工程があってこそだと水上さんは話します。
牛タンは、料理ごとに使い分けます。冷菜やしゃぶしゃぶは切りたて。炭火焼きに使うものは、一晩寝かせてから火を入れます。
「切りたてのほうがいい料理もあれば、少し寝かせたほうが旨みが出る料理もあります」。
切るタイミング、厚み、寝かせ方。その日の牛タンの状態を見ながら、仕込みを進めていきます。
「焼き加減も、結局は感覚ですね。毎回、同じ厚みでもないし、水分量も違う。仕入れた日の状態や、皮を剥いたときの張りを見て、今日はどこで火から上げるかを考えます。
何分焼く、って決めちゃうと、逆にズレることが多いんです。だから最後は、トングでの触感を頼りに感覚で決めていきます」
厚みや水分量、繊維の張り。細かな数値や時間で決めるのではなく、仕込みで整えた状態を踏まえて、いちばんいいところで火から上げる。仕込みとは、下準備で終わるものではありません。料理につなげる最後の判断まで含めて、牛タンと向き合う時間だと水上さんは考えています。
初めての〈牛タンカルパッチョ〉を楽しむあやんぬ。

生でも食べられる鮮度を保った〈牛タンしゃぶしゃぶ〉
新鮮な薄切り牛タンをオリーブオイルでいただく〈牛タンカルパッチョ〉。隠し味のポン酢で和の要素を加え、牛タンの“軽さ”を引き出した一皿です。焼きとも、しゃぶとも違う表情を見せ、牛タンの印象をやわらかく更新してくれます。
〈熟成厚切り牛タン炭火焼き〉は、一晩寝かせた熟成もの。厚切りにすることで、噛むごとに口の中で旨みが広がります。炭火で焼き上げることで、表面は香ばしく、中はやわらかく。牛タンの力強さを、真正面から味わえる一皿です。
『牛タン いち江』の代名詞ともいえる〈牛タンしゃぶしゃぶ〉。厳選された生でも食べられる霜降り牛タンを薄くスライスし、あごだしベースの合わせ出汁にさっとくぐらせる。九条ネギとともに口に運ぶと、牛タンの甘みがすっと広がります。酸味を抑え、素材を引き立てる役割に徹した自家製ポン酢でどうぞ。

さまざまなお酒とも楽しみたい牛タン料理。中でも、熱海のだいだいを使った〈熱海だいだいサワー〉は、牛タンの旨みを引き立てつつ、後味をすっと切り替えてくれます。


店が大切にしているのは、牛タンを「この食べ方」と決めつけないことです。焼きには熟成、しゃぶしゃぶや冷菜には切りたて。素材が持つ可能性を引き出し、新しい料理として提案していきます。
「特別なことをやっている感覚は、あまりないんです。ただ美味しい料理を届けたいという結果なので。
ただ牛タンって、まだいろんな出し方ができる素材だと思っています。一般的な食材と同様に、より美味しくするために必要な料理の引き出しを、これからも向き合っていくだけです」。
調理法を増やすことが目的ではなく、素材の可能性を引き出した結果、多様な料理が生まれていく。その積み重ねが、『牛タン いち江』の提供のかたちになっています。
焼きの力強さ、しゃぶしゃぶの軽さ、冷菜の繊細さ。一皿ずつ食べ進めるうちに、牛タンの印象が少しずつ変わっていく。重い肉、という先入観だけで終わらない。
「牛タンってこんな食べ方もあるんだ、って思ってもらえたら嬉しいですね」。
熱海の夜に、牛タンの多様性を体験できる場所があること。それ自体が、この街の選択肢を静かに広げています。
魚の余韻が残る夜に、もうひとつの行き先として思い出してほしい。牛タン専門店『牛タン いち江』は、牛タンの可能性を、多様な料理として確かめ続けています。

牛タン いち江
住所:静岡県熱海市中央町10-10 MAP
URLhttps://www.instagram.com/gyuutan_ichie/
Credit
Photo_Taijun Hiramoto
Text & Edit_Takuya Kurosawa